passive voice.
傷つき泣きたくなるような時に
傍にいて支えてくれる人の心遣いの温かさなんて、
一度体験してみなくちゃナカナカ解らないものでしょう?
何も云わずに、唯傍にいてくれることの有り難さは、
護られる側の人間にしか味わうことのできない特権だと僕は思うんだ。
その日僕は、他人から見れば、本当に些細な、
だけど僕にとっては重大なコトで喧嘩をした。
殴り合うくらい感情的な、それでいて何処か論理的な。
そんな喧嘩をした。
今になって考えると、アレは僕も相手も、双方少し可笑しかったように思う。
周囲の目なんて気にせずに、路上で怒鳴り合い殴り合う姿は、
同情心を誘うどころかむしろ哀れすぎて滑稽だ。
頭の中では、もう過ぎたことだと冷静に片づけてしまったのだけれども、
身体の奥底の、とてつもなく繊細で柔らかな部分は確かに傷ついていて。
燻り続ける火種のようにチリチリと熱を帯び、寄せては引く波のように、時折鈍い痛みを伴う。
殴られて腫れ上がった頬よりも、泣きすぎて腫れた瞼よりも。
繰り返し訪れる、その痛みの方が、僕にとって遙かに辛いのもまた事実で。
気にしないように。気にかけないように。
そうやって言い聞かせれば言い聞かせるほど、痛みは激しさを増していく。
脳に痛みを刻んでゆく。
唯々口惜しくて、僕は泣く。
イイ歳して泣くなんて、馬鹿だな、由高。
なんて、冷めた目でもう一人の自分が、自分自身を卑下してる。
だけど、今は恥とか体裁とか、そんなモノかなぐり捨てて、
大声で泣きたい気分だったんだから仕方ない。
なんだか、我が儘で自分勝手で、オマケに泣き虫な。
まるで幼子のような自分が作り物の皮を剥がされていくかのように
姿を現し始めたような気がする。
いっそ、このまま自由で自分のことだけ考えていられる。
そんな子供の頃に戻れてしまえばいいのに。
今更そんなくだらない願い事を思いついてしまうほど、
僕は大人になりすぎたのかもしれない。
そして僕は声を上げて泣いた。
ほどなくして、聞き慣れた、
それでいてどこか懐かしいような声が聞こえた。
涙で濡れた、膝頭から少しだけ顔を上げると浅日が僕に手を差し伸べているのが見える。
見慣れたはずの浅日の顔でさえ、今は無性に愛しい。
何時まで経っても、一行に手を握り返す気配のない僕を、浅日が優しく抱き起こしてくれる。
いつのまにか、道路の真ん中で、膝を抱えうずくまっていたらしい。
浅日の腕の、肩口に掴まり、ゆっくりと立ち上がる。
それほど長い時間うずくまっていたとは思えなかったけど、
膝の辺りが小さく音を立てて軋む。
立ち上がる時に、ほんのお礼のつもりで、僕は微かに微笑んだ。
いつも笑うように、少しずつ口の端の筋肉を持ち上げる。
途端、浅日が苦虫を噛み潰したような顔をした。
何処か可笑しかったのだろうか?
そっと浅日に聞いてみる。
浅日は、先刻よりは少し表情を和らげて、
無理に笑おうとすると痛々しいからヤメロ。とだけ云った。
その言葉を聞いただけで、僕はまた泣き出してしまった。
本当は、誰かに無理しなくていいよって云って欲しかったのかもしれない。
ずっと前から。
涙で滲んだ視界の中に、眉根を寄せて困惑した浅日の笑顔がちらつく。
例えばこれが、浅日でなくて別の誰かだとしたら。
僕はその誰かを確実に殴り倒しているだろう。
顔面直撃右ストレィト。
同情されるのは嫌いだし、寧ろこちらから願い下げだ。
だけど此処にいるのはその誰かでなくて、浅日だから。
浅日に同情されるのなら、それもいいものかもしれないと思えてしまう。
浅日の暖かい手が、僕の頭を撫で続けている間、僕はそんなコトを考えていた。
突然、浅日は僕の手を握って、近くの公園へと引きずり込んだ。
あまりに前後の脈絡が無さ過ぎて、僕は躊躇してしまった。
僕を椅子に座らせ、乾き初めた涙を袖口で拭ってくれる。
優しく、頬に触れる指先が、なんだかくすぐったくて少し笑った。
そうやって笑えるなら大丈夫だろ、と云って浅日は僕の隣に座った。
それから続くのは静かな沈黙。遠くで鳴く鴉の声しか聞こえない。
普段は何も話しかけなくても、自分一人で騒ぎ出すような奴なのに。
どうして泣いてたの?とか、何があったの?とか問いただしてなんてこない。
唯々静かに、僕の頭を撫でながら、何処か遠くをみつめている。
痺れを切らした僕が、少し怒りの感情を込めながら、
どうして何も聞かないの?と問いただしても、唯頷くだけでなにも云わない。
穏やかに微笑みながら、僕の頭を抱いて、肩口へと引き寄せる。
母親が子供をあやすように、背中を優しく叩きながら、
浅日は一言だけ、泣いてもイイヨ。と告げた。
その言葉を聞いた途端、堰を切ったように、また涙が次々と溢れだした。
さっきだって散々泣いたばかりなのに、優しくされるほど涙が流れるなんて不思議だ。
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙の雫を、両手で何度も何度も受け止めながら、
僕は隣に居る浅日の体温を感じ、心の底から満たされていった。
03.05.21